(Note: This thread intended to post KS fanfics translated to Japanese.)
フォーラムに投稿されたファンフィク(二次創作小説)を日本語に訳していくスレッドです。
SS日本語訳スレッド(Fanfics translated to Japanese)
甘美な声(Sweet Voice)
第一弾はSilentcook氏による作品です。
ある日の久夫とミーシャの逢瀬を描きます。
Silentcook氏はリリーの担当ですが、ミーシャ担当のA22氏もその出来に脱帽したとのこと。
本編にはミーシャルートはありませんが、見事な本歌取りの出来映えをお楽しみください。
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SWEET VOICE 甘美な声
俺は自分の時計に目をやる。これでもう100回目だ。時計の針はさっきと変わらない。
――19時30分。
俺は時間どおりに着いているが、静音の姿はここにはない。
つまり、静音は遅れているということだ。
……そろそろ黙示録の四騎士が俺の前を通り過ぎていくんじゃなかろうか。
静音は絶対に遅刻なんてしない。あいつの性格とか、競い合っているような俺との関係を考えると、遅刻するくらいならむしろ死んだほうがよいとか思ってそうだ……やばいな。あいつが来たときにどうやってからかってやろうか考えていたのに、急に心配になってきた。
もしかしたら本当に何かに巻き込まれてるんじゃ……。
でもそう考えるのは数分だけだ。まったく問題のない理由だっていくらでも考えられる。
しばらく考えてから、俺はもう少し待ってみることにする。ささいなことで大騒ぎしたくはないし。大体そんなことをしたら静音は(俺が心配していたと知りつつ)そのことで俺を責め立てるに違いない。
もうちょっと経ったら、静音に連絡して大丈夫か確認しよう。
俺は溜息をつく。ときどき、俺と静音の関係がもっとこう……ややこしくなければいいのに、と思う。デートに少し遅れるという些細なことでさえ、こうやって策略に満ちた心理的な柔道の試合と化してしまう。
俺は静音のことがとても好きだし、静音も同じように俺のことを好きでいてくれていると思う。でもあいつの性格のおかげで、一緒にいる時に本当にリラックスするのはちょっと難しい。
それについては俺にも少し責任がある。俺は基本的な手話しか知らないけど、もっとちゃんと手話を知っていたら、静音の感情をはっきり理解できるだろう。静音との意思疎通はできるけど、俺が他の人と話しているときにでてくるようなニュアンスはやっぱりまだ伝わらない。
そして近くにミーシャがいるときは、二人ともそんな話をしたりしない。ミーシャはいろんな意味でいい女の子だけど、静音に向けて「キスしたい」なんて通訳してもらったりしたら、恥ずかしさで俺の心臓が止まるか、ミーシャがひとりでに燃え上がるだろう。
ましてや、実際に何かをするなんて考えられない。結局、これまで俺たちは人目を避けたキスを数回交わしたけど、それ以上のものはほとんどなかった。
俺はまた溜息をつく。多分俺は今、皆様方の「振られた男」のイメージそのまんまに見えているんだろうな。着飾って、デートに行く準備をしていて……ひとり惨めに約束の曲がり角にいる。
もう一度時計を確認する。15分か……これはもう連絡してもいいな。俺は本格的に心配し始めている。
「久夫ーーーーーーーーーー!!」
少しの間、俺は困惑しながら考える。静音が俺の名前を呼んでいる。いや、そんなことはありえない。俺は叫び声が聞こえてくる方向の路上を見て声の主を探すけど、そこには人ごみができていて、よく見えない。あれは……
「久夫ーーーーーーーーーーーー!!」
……ああ、やっぱり。人ごみから駆け足で飛び出し、俺に向けて元気に両腕を振り回しているのは、制服姿のミーシャだ。
俺が反応できる前に、よろよろと最後の数歩を進め、俺の正面で立ち止まる。体を曲げ、膝に手をつき、呼吸を整えている。
「はぁっ……はぁ…………」
「ミーシャ……お前なんでここにいるんだ? 何かあったのか? 静音は……」
俺は天気とは全く関係なく寒気を感じる。神様、なにか悪いことが起きたのか? 静音は怪我でもしたのか、それとも襲われたのか、それとも……
「はぁぁっ……はぁ…………ふぅ」
ミーシャはゆっくり立ち上がり、まだ疲れを残しながら俺の目をまっすぐ見て言う。
「この、バカーーーーー!!」
……今の言葉はあまりに強烈な音量と圧力で、後ろの窓ガラスには間違いなくひびが入っただろうと確信する。もともとミーシャは穏やかな話し方をしないけど、今のは俺も一歩後ろによろめいてしまうほどだ。機嫌を損ねて間もないようなその視線も、何か関係があるのかもしれない。
「デートの日に携帯の電源切るなんていったいどういうつもりなの!? このダメ男!!」
「……え?」
何を言ってるんだ? 電源を切ってるだって? 俺は携帯をポケットから出して……
……やべっ!
俺はミーシャがそれ以上何か言わないうちに死に物狂いで携帯を突き出す。
「違う! 見ろよ! 電源を切ったんじゃない、電池切れ! 俺悪くないから! 頼むから落ち着いて! 静音になにがあったんだ?」
ミーシャはまだ怖いくらい真っ赤だったが、静音の名前を出したら少し落ち着きを取り戻したようだ。
「……しっちゃんは引き止められたの。今日は来ないよ」
俺は息を爆発的に吐き出した。彼女の怒りと俺自身の心配に挟まれて、俺は自分で思っている以上にに緊張していた。でも静音が無事なら、ほかに何が起きたとしてもどうにかなる。この埋め合わせは高くつくかもしれないけど、でも……
うーん……
自分の意識がミーシャ以外に向いたその時、周りの全ての人の視線が俺たちに向けられていることに気づく。少なくとも1ブロック先まで聞こえるような大声で言い合っていたのだから、驚くようなことではないんだろうけど。クスクス笑っている人がたくさんいる。
俺はミーシャの腕をつかんで引き寄せる。
「着いて来い」
「えっ?」
彼女の怒りが困惑に変わる。
「だから着いて来いって! 話は後でもいいだろ!」
俺は歩き始め、ミーシャもつまづきながらついてくる。驚いた、面白がっている、あるいは非難めいた表情の観衆を後にして、すぐに彼女は俺と歩調を合わせる。とにかく公衆の面前で恥をかいた現場から確実に距離を取るべく、どこに向かっているのかなんて考えずに適当に2,3回曲がってから、立ち止まってミーシャと再び向き合う。
「いいか。聞いてくれ、ミーシャ。悪かった……俺に知らせるためにわざわざここまで来なきゃいけなかったのはわかるよ。でも俺が悪かったわけじゃない。ただの偶然だったんだ。頼むから怒らないでくれよ、な?」
ミーシャは膨れている。天よ、俺はむしろもう一度怒鳴られることを望んでしまいそうだ。俺は先に口を開き、尋ねる。
「『引き止められた』って……実際には静音に何が起こったんだ?」
「言うから離してよ」
「え……? あっ!」
彼女の腕をずっと掴んでいることに気づき、あわててそれを離す。ミーシャは体の埃をはらってから、再び俺の方を真剣に見る。彼女はグーを作って口に当て、かわいく一つ咳払いをした後、素早く手を動かして長々と複雑な手話を見せる。もし俺の命がかかっていたとしても、こんなのわかるわけがない。
ああダメだ。思ったより早くつけを払う羽目になりそうだ。ミーシャはサメのように歯を見せてニヤリと笑う。実に楽しそうだが、俺の気分は全く晴れない。
「わかった、わかった。降参。俺にも分かるように訳してくれないか?」
「へっへっへ~。いいけど……高くつくよ?」
やっぱりな。
「……いいよ。それで何がお望みなんだ?」
「関係ないない~! それに、どうせ知りたくてしょうがないんでしょ? ねぇ、ひっちゃん?」
うう……その通りだ。もし静音が来られなかった理由を後で自分で確かめる羽目になったら、そのことを静音に知られて、最終的に俺は薄情で鈍感な間抜けだと思われてしまうだろう。
俺は降参して両手を挙げる。
「そうだよ。言うとおりにする。で、あれはどういう意味だったんだ?」
「あははははっ! あれはね、しっちゃんからの伝言なんだよ」
…………
そこでミーシャは一瞬止まった。俺が本当に不機嫌な表情をしているせいだろう。そして続けて、
『久夫、残念だけど急な家庭の事情で、今すぐ出発しなければならなくなったの。大したことじゃないから、心配しないで。予定通り会えなくて残念だわ。数日したら帰ってくるから、そのときに埋め合わせができるといいわね』
まったく、静音らしいな。他の人なら「急用ができた、心配しないで、ごめんね、また来週」とでも言うだろうけど、静音ならこれ以上ないほど完璧なお詫びを伝えてくるんだ。俺はほっとしたが、まだ完全に安心しきってはいない。目の前にいるニヤついているこの悪魔をどうにかしないとな。
「お願い聞いてくれる準備はできた? ひっちゃん」
正面から突っ込めば、傷は浅くて済むかもしれない。
「ああ。なにがいいんだ?」
「へっへ~」
ミーシャは俺の隣までスキップしてきて俺の腕をつかむ。
「こんな状況から逃げ出そうとしないでくれて本当にありがと、ひっちゃん! 今日はしっちゃんの代わりに私を連れてって!」
「『絶対に』聞き間違いだよな? もう一回言ってくれないか?」
「え~、私が言いたい意味、分かってるんでしょ? ひっちゃんたちはデ・エ・トに行くつもりだったんだよね、しっちゃんがさっきの伝言考えているときにほとんど私にも伝わってたよ。あー、しっちゃんは『愛してる』ってことも伝えてほしかったと思うけど、でももちろんそこまでは言ってないからね。なので~、しっちゃんを連れて行く代わりに、わたしを連れて行くの! 感謝してよねひっちゃん、おかげで予約が無駄にならずにすむんだから! ははははは!」
……くそ。その通りだ。確かに考えてみると、さっき俺に怒鳴りつけていたときから全部知ってたな。静音が俺に愛してるって伝えたがっていたのはちょっと嬉しいけど、でも……
「ほら早く! ひっちゃん、動いて動いて! このままだと遅れちゃうよ!」
……今は俺の肩を引っ張って脱臼させようと雄々しい努力をなさっているミーシャさんをどうにかしないとな。はあ、やれやれ。いい事ばかりとは限らないな……。
***
こういうややこしい事情だっだけど、驚いたことにそれでも今日はとてもうまくいったのだった。二人は昼と夜くらいの違いがあるのにも関わらず、ミーシャは俺が静音とのデートのために考えた予定を楽しんでいるようだった。彼女はしゃべりっぱなしだった。俺が選んだ小さなレストランでも、大量の料理を貪り食いながら、彼女が時間通りに俺に連絡をつけるために走ってこなければならなかった件について話し続けていた。彼女はぶらぶら歩くことが好きなようで、商業地区でウィンドウショッピングをし、そのときに俺にアクセサリーを一つ買ってほしいと『頼んだ』。彼女は俺が予定に入れていた古典美術品の展覧会だけ反対して、代わりに喫茶店の『上海』に行きたいと言った。その後、ミーシャはこっそりと短い電話をかけた……
そして今、俺たちは上海の客席に座っている。不思議なことに悪い気はしない。ミーシャは俺が見てきたどの静音よりも元気で活発な表情を見せている。ただ、これは公平な比較とはいえない。代わりに自然体と冷静沈着を比べるべきなのかもしれない。
ところで、ミーシャはティーポットから伝わってくる熱から察するに、溶岩並みに熱い何かを少しずつすすっている。一方俺は、すでに席に用意されていたハーブっぽい飲み物をちびちびと飲んでいる。嫌いじゃないけど、あまり好みでもない。たぶん、ミーシャがさっきの電話で手配したんだろう。
「へっへ~。ねぇ、ひっちゃん?」
「ん?」
彼女はことわざにある『カナリアを食べた猫』のように落ち着かない様子だ。俺はおおいに警戒する。これまでのところ、彼女の要求は常識的な範囲におさまっている。俺のデートプランを変更して上海に来たので、ここの勘定は自分が払うとまで言ってきたのだ。でも決して安心はできない。
彼女はテーブルの上に覆いかぶさるように体を曲げて、いかにも何か企んでいる風にささやく。
「……すてきな特別サービス、してあげよっか?」
ふいあsうぇでぃへ?
ちょっと待て、ちょっと待て。ありえない言葉が聞こえてとても怪しいんだが。ミーシャは俺をからかおうとしているんだ、そうだそうに違いない。そんなわけで、俺はあまりあれこれ考えずにうなずけてしまった。
「『本当は』何を企んでいるんだ? ミーシャ」
ああ、なんてこった……俺は二人と長く付き合いすぎたよ。築いてきた信頼もこれで台無しだ。こんにちは、疑心暗鬼。ゆっくりしていってね!!!
でもミーシャはそれを悪い意味に取った様には見えない。
「あ、私は飲み物をついであげたかっただけだよ、ひっちゃんとっても優しくしてくれてるから。言ったでしょ、サービスサービス! さあいかが?」
「ああ……いや、もちろん。どうぞ頼むよ」
そら見ろ、疑心暗鬼。目を覚まさないでいいって言っただろ。俺はそこまでこのハーブっぽい飲み物を飲みたいとは思ってないけど、断るのはとても失礼だろう。
二つの新品の磁器製のカップとともに、一本の瓶が静かに取り出される。ミーシャは仰々しくその液体をカップに注ぎ、俺にそっと差し出す。こりゃ驚いた、その気になればミーシャも上品に振る舞えるんだな。そして彼女は自分のカップにも同じように注ぐ。ミーシャは俺を待たずに、一息でほとんど飲み干した。
じゃあまあ、乾杯……。
……
「○×※□▲!」
言っておくとこれは俺の声だ。自分がこんな面白い音を出すことができるなんて、知らなかった。もっとも俺はそれを飲んでしまったことにも気づいていなかったので、あいこだろう。ごめんな、疑心暗鬼。お前が正しかったよ。俺は頑張って咳き込まないように努めるけど、目に溜まった涙でバレバレだろう。
「あれ、ひっちゃん、お酒弱いなら見栄張らないほうがいいよ? へっへっへ~」
「酒――」
やばいやばい。しゃべって危うくまた咳き込む所だった。俺は2、3度深呼吸をして、自分を落ち着ける。そして刺すような目つきでこの悪魔っ娘をにらみつける。)
彼女は自分でついだ2杯目のカップを幸せそうにちびちびやっている。俺のカップも再び満たされていることに気づく。
「もっといる? これは特別なんだよ、優子さんが私たちにしてくれる大サービスなの。私たちも飲みすぎないようにするし、優子さんも私たちが常連だからおとなしく飲むって信用してくれてるんだよ」
「俺たちが酒を飲んでどうなるかは置いといて、お前はそこまで俺を騙したかったのか?」
ミーシャの瞳が普段と違う輝きを見せる。そこに見えるのは……後悔、だろうか?
「あぅぅぅ。違うの、ひっちゃん。冗談で済ませてくれるかなって思っただけなの。ひっちゃんってすごく信じやすい人だから、我慢できなくって……でも悪気は無かったの。許してよぉ。ね? これ、ホントにおいしくてひっちゃんに楽しんでもらいたくって……」
俺は瞬きをする。今……謝ってたのか? この出来事だけで今日は奇妙な日だとさらに確信する。肩透かしを食らった俺にはカップを持ち、ぶっきらぼうにつぶやくことしかできない。
「乾杯」
ミーシャの顔に浮かんだ笑顔は、小さな街を丸ごと照らせるくらい輝いていた。
***
俺たちは学園へ帰る最終バスに乗るべく歩いている。いや、そう言うにはちょっと語弊がある。正確に言うなら、俺たちはジグザグに進んでいる。俺たちはうまい酒を数杯ぺろりと平らげた - ミーシャが俺に飲み比べを挑んできたのだ - それがちょっと効いてきているんだろう。俺の頭には心地よい耳鳴りが響いていて、手足の筋肉がゴムになってしまったかのような……開放感を感じている。
ミーシャは必死に俺の腕にしがみついて、ほとんど絶え間なくキャッキャッと笑い声をあげている。夜の空気が新鮮で気持ちいい。
「ねぇ、ひっちゃん~?」
「うん?」
「しっちゃんのこと好き?」
その質問は俺に衝撃を与えるはずだった。でもそうはならない。それは二人の友人が分かち合えるような親密なもので、自然なことのように思えた。俺は数秒考えた後、答えた。
「ああ、うん。好きだよ」
「しっちゃんじゃなくて私に付き合わせちゃってごめんね」
ミーシャの声は明らかに小声になる。
「バカなこと言うなって。なんにも謝ることなんてないから。今日は楽しかったし、いつも以上にリラックスできたし、感謝したいくらいだよ」
「本当?」
「本当」
「へへへ~」
彼女は俺につかまる腕にさらに強く力を込める。まるで俺の服の中に入ろうとしているようであり、そして俺の腕は柔らかさで包まれる。俺はそのことについてあまりよく考えなかった。
「ひ・み・つ、知りたくない? ひっちゃん」
「ん?」
「ねぇねぇ、どうなの~? ひっちゃんが一つ言ってくれたんだから、お返しに私も一つ教えるのが公平だよ」
「ああ、OK。お前がそう言うなら」
「…………私には声がないの」
「え? 何またバカなこと言ってんだ。今だってよく聞こえるぞ」
「違うの。今は聞こえるかもしれないけど、しっちゃんがいたら私じゃなくてしっちゃんのほうを聞くでしょ」
ミーシャは俺の肩に顔を埋めている。何だか……おかしな感じがする。この感じ……なんか間違ってるぞ。
「うーん、お前は静音の代わりにたくさん話しているし、それはそうだな。でも……」
「私は静音といるときはいつも静音の代わりに話してる。しかも私はほとんどいつでも静音と一緒にいる」
俺は黙ってしまう。ミーシャは俺の言葉なんて必要ないみたいだったけど。
「だから私はほとんどいつも自分の声を持てないの。ひっちゃんと一緒のときは。だって静音のまわりでは自由に話せないから。ひっちゃんは静音が好きだから。ひっちゃん、私はひっちゃんを励ましたいのに、他の誰かの代わりにひっちゃんを叱らなきゃいけない、ひっちゃんと一緒に笑いたいのに、他の人のためにひっちゃんをからかわなきゃいけない、それがどんなに不愉快かわかる? それから、それから……」
彼女の声は消え入り、鼻をすする小さな音が聞こえてくる。こんなの……まるで間違ってる。でも俺はどうしていいか分からず、そしてミーシャは俺の腕をしっかりとつかんでいる。まるでそれが唯一の命綱であるかのように抱きついている。
「私もあなたのことが好きなの」さらに小さい声が聞こえた。誰が言ったんだ? ミーシャか? 俺か? そんなこと関係あるのか?
俺たちは無言のままバス停への道を歩き、バスが到着するとそれに乗り込んだ。後部の座席に座り、お互いに顔を合わせようとしない。ぎこちない雰囲気が俺たちの間に漂う。
「ひっちゃん?」
「……うん?」
「ごめんね、自分勝手で」
俺が答えようと彼女のほうを向くのと同時にミーシャは俺に近寄り、俺の不意を突いた。
俺たち、キスしてる。
心の片隅で俺はミーシャの味は酒の味がしないと気付く。彼女は強いミントティーのように、熱くて爽やかに感じられる。俺は彼女の体に手を回す。女の子とキスする時はそうするものだ。すると彼女は俺に寄りかかってくる。俺たちはどちらも疲れ切っていて他のことは何もできず、だから息が切れるまでそのままでい続けた。俺たちは息ができる程度に、ほんの少しだけ離れる。ミーシャは脱水状態で死にかけている時に最後の一滴の水を見るような目で、俺を見つめている。
「今までのことを謝ったんじゃないの。まだ私なんにも間違ったことしてないもん。私はこれから起こることに謝ってるの」
彼女の声がとても遠くで聞こえる。彼女が飲んだ酒を全部俺の中にキスで流し込んだかのように、俺はぼぅっとし彼女は完全に酔いが醒めている。
彼女は溜息をつき、俺に寄りかかる。そして、その後間もなくバスが停車した。彼女が先に立ち上がり、俺の手を掴んでドアから外へ引っ張り出す。
「はあぁぁ~~。気持ちいい!」
もう夜の空気は少し肌寒くなっている。でも俺たちはいくらか興奮しているのだろう。学園の門が目の前に見える。ミーシャはこの世に心配事なんてないかのように、スキップしつつ幸せそうにくるくる回っている。
「散歩しない? ひっちゃん」
彼女は回るのを止め、いたずらっぽく微笑む。
「どういう意味だ? 行く所なんてどこにもないぞ、それに門限が……」
「大丈夫、大丈夫~! 時間は十分にあるから、それに……」
俺は時間を確認し、彼女が正しいことにはっと気づく。俺は門限を破りたくなかったので、何かあったときのために時間の余裕ができるよう、念入りにデートのプランを立てていたのだ。
「……近くに森があるでしょ」
彼女はまたバスの中で見せたあの表情を浮かべる。森の中には何もない。彼女はそのことを分かっている。俺がそれを知っていることも。
『……ごめんね、自分勝手で』
『……私には声がないの』
『……どんなに不愉快か分かる?』
「ああ、森の中で散歩か、いいね」
彼女は笑いながら俺を両手で暗闇のなかへ引っ張って行く。
あまり奥には入らない。時間もそれほどないし、はぐれてしまう危険は決して冒したくない。俺たちが月光によってまだらに彩られた影となるには数メートルだけで十分だった。
ミーシャはおかしなほど元気になっている。彼女は再び俺の腕に抱きつき、光の斑点の中でミーシャが俺を見上げているのが見えた。
「ねぇ、ひっちゃ~ん……」
「何だ?」
「……少し屈んでくれないとキスできない~!」
応じないわけにはいかないだろう。影の中で、俺は丁度いいくらいまで体を曲げ、そしてそれに見合ったデザートを口にする。
それは一度目のときより穏やかなキスだった。
俺たちは時間をかけながら、少しずつお互いを舌触りで探り合った。その間ずっと、俺たちはゆったりとしたダンスのパントマイムのように動き続けた、そしてミーシャが一本の木に背中をつけたところで終わる。
体を支える先ができた今、俺たちはお互いに集中することができ、そして集中する。
どうしてそうなったのかは分からないが、いつからか俺の左手は、そこに押しつけられた驚くほど柔らかくて引き締まった何かを掴んでいる。そしてミーシャは猫のような鳴き声をあげて息づかいを乱す。
「ひ、ひっちゃん……待って……」
俺は待ったりはしない。もうこの宝物を手放せないほど深入りしすぎてしまっている。でも、俺は誤解していた。ミーシャの手が俺から消え、カサカサという衣擦れの音が聞こえてくる。忌々しい数秒の間、彼女の左手は俺の手首をしっかりと掴み、そして解き放つ。今まで布で覆われていた位置にある、彼女の肌を感じられるように。
俺の最初の愛撫にミーシャは高い声をあげ、キスが中断される。彼女は頭を俺の胸に埋め、痛いくらいにきつい力で俺の肩に抱きついている。しかし俺も彼女も気にしていない。
彼女がどれだけの間こうなりたいという欲望を抑えていたのかは俺には分からないが、彼女の心の痛みを少しくらい引き受けるくらいのことはできる。
俺たちの息づかいは激しくなり、また互いの体に手をさまよわせる。ミーシャの手は俺のベルトの下を通過し、まさぐり始める。俺は少し震えながら、同じようにすることにする。
俺たちは焦りすぎてるんじゃないかという気がする--とは言うものの、俺たちはいろんな意味で緊急事態に直面しているわけで。
俺がミーシャの柔らかで肉付きのいい太ももに触れると、鋭く息を吸う音が聞こえてくる。しかし彼女は俺にやめてとは言わない。
俺が手を彼女の股間のほうへ上げていくと、息子を触れられているという感覚を感じ、俺は体を震わせる。
だが、どちらもやめろとは言わない。
そして俺の手が彼女の最も大事な場所へ到達すると……
「あぁっ……はぁ……あぁぁん……」
……ミーシャは俺よりもずっと興奮しているのだと気付く。もう俺たちは止まれない、ということも。なぜなら彼女のスカートの下で、俺の指先は布ではなく、柔らかで温かい湿り気を感じたからだ。
「いつ……」
俺はかろうじてそのしゃがれ声が自分のものであると認識することができた。だがミーシャはそんなこと問題にせずに、息を切らせながらクスクス笑った後に答える。
「さっき……一旦離れたとき……」
もう考えることも難しくなっている。俺は自分の体を彼女に押しつけ、その褒美として彼女のキャッという高い声が返ってくる。
彼女は俺の首につかまると、ささやくように嘆願し、俺たちの運命を決める。
「いいよ」
なぜ三つの手が関わると言うだけで、自分のチャックを開けるだけの単純な作業が、ほぼ一時間かかるような煩わしい作業に変わることになるのか、信じられない。
俺は一旦自由になると、必要なこと以外に時間を費やさない。俺たちは完全に木にもたれかかり、俺は狂ったようにまごつきながら、やがてあるべき場所に沈みこむ。
「いっ……たぁっ……」
ミーシャは体を少し強張らせるが、俺には気付きようがない。
俺は動き、感じ、そして抱きしめる。いつからか、彼女は脚をあげて俺の脚に巻きつけている。でも二人とも無意識で動き続けているだけなのか、それ以外に何かしているのかどうか、俺には判断が付かない。二人とも、もううめき声や喘ぎ声しか出すことができない。
数分後、いや、数時間後かもしれないが、全てが真っ白になった。
「はぁ……はぁはぁ……はぁ……」
現実に戻るまでしばらくかかった。そして俺はすぐにパニックに陥る。
「ひっちゃん……責任……取ってね?」
今すぐに通訳が必要だ、と俺は気付く。俺の口から発されたしゃがれ声から考えると、どういうわけか俺は声を無くしてしまったようだ。それに俺の手はふさがっているので手話もできない。通訳は今さっき俺に質問をした人間しかいない。神様俺はどうすればいいんだドンナイイワケスレバイインダ……
天使が発した鈴の音のような笑い声と簡単な言葉で、俺は地獄から引き上げられる。
「へっへっへ~……ひっかかった~!」
……いや、悪魔かもしれないな。でも翼は翼だ。この状況であーだこーだ言ってる余裕は無いな。
「心配しないで、大丈夫大丈夫~! でも今度からは気をつけなきゃダメだよ! ほらあっち行ってて、私……後始末、しなきゃいけないから」
俺は熱烈なキスを受ける。それは品の良さを漂わせるような軽いものじゃなかった。熱のこもった唇同士のぶつかり合いだ。三台の車の自動車事故と駐車場の関係と同じくらい、キスとはほど遠いものだった。
俺たちはもう離れている。俺のモノは今のローブローには耐えきれず、ただ彼女を手放し、もぞもぞと後ろに下がって、いろいろとまごつきながら後片付けをする。俺がもう一度ミーシャを見ると、まだらな闇の中から俺を元気付けるかのような笑みを浮かべ、手を振ってきた。
当惑して、俺は振り返り、言われたとおりにする。
あと数歩で森から出るところだった。二人とも少し森の端に向かってさまよっていたようだ -- 2000時間くらい前に。
俺は時間を確認して、目を疑った。俺たちは森の中に30分もいなかったのだ。まだ門限にだって全然遅れていない。
次に気づいたのは、自分の両手についた血の筋だった。
もう今日一日で十分すぎるくらいショックを受けたと思っていたけど、どうやら間違いだったらしい。俺は気も狂わんばかりに手を確認して血を拭き取ってみたが、傷は一つも見つけられない。更に死に物狂いで調べると『リトル久夫』も同じくらい血まみれであることに気付く。でもやはり傷はない。つまり……
うわあ。
完全に恐慌状態に陥る寸前、背中にかけられた声に救われた。
「よっし! じゃあ、帰ろっか!」
なぜ彼女が平然としていられるのか分からないけど、でもミーシャはそこに立って、ニコニコ笑っている -- *笑ってるんだ*、本当に。うっすらと疲労の色が見て取れるが、消耗しているにもかかわらず笑顔のままだ。
もうどうしていいのか分からない。泣き出してしまいそうだ。
「ちょっとひっちゃん、幽霊でも見たみたいな顔してるよ。私だってば、ほんとに! あははは!」
俺は呆然として、頷くことしかできない。俺がミーシャに腕を差し出すと、彼女は幸せそうに俺に寄りかかってくる。それとも感謝しているのだろうか? 俺たちは門へと向かい、そのすぐ手前まで来るとミーシャは俺を放す。
「おっけー、ここでお別れしなきゃ。もしこんな遅くに一緒にいるところをみられたらちょっとマズいもんね。じゃーね、ひっちゃん。また明日!」
両手を素早く動かすと、彼女は門の中に消えていき、見えなくなった。彼女の顔に、あの時のような表情は少しも見ることはできなかった。でもさっきのミーシャの手の動きは手話だったと思う。それは手話ができるとはお世辞にも言えない俺が、特にがんばって覚えた言葉の一つだ。
『愛』だった。
その夜、自分のベッドの上で悶え転がりながら、俺は彼女の甘美な声の夢のせいで眠ることが出来ないでいた。
-SC
ある日の久夫とミーシャの逢瀬を描きます。
Silentcook氏はリリーの担当ですが、ミーシャ担当のA22氏もその出来に脱帽したとのこと。
本編にはミーシャルートはありませんが、見事な本歌取りの出来映えをお楽しみください。
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SWEET VOICE 甘美な声
俺は自分の時計に目をやる。これでもう100回目だ。時計の針はさっきと変わらない。
――19時30分。
俺は時間どおりに着いているが、静音の姿はここにはない。
つまり、静音は遅れているということだ。
……そろそろ黙示録の四騎士が俺の前を通り過ぎていくんじゃなかろうか。
静音は絶対に遅刻なんてしない。あいつの性格とか、競い合っているような俺との関係を考えると、遅刻するくらいならむしろ死んだほうがよいとか思ってそうだ……やばいな。あいつが来たときにどうやってからかってやろうか考えていたのに、急に心配になってきた。
もしかしたら本当に何かに巻き込まれてるんじゃ……。
でもそう考えるのは数分だけだ。まったく問題のない理由だっていくらでも考えられる。
しばらく考えてから、俺はもう少し待ってみることにする。ささいなことで大騒ぎしたくはないし。大体そんなことをしたら静音は(俺が心配していたと知りつつ)そのことで俺を責め立てるに違いない。
もうちょっと経ったら、静音に連絡して大丈夫か確認しよう。
俺は溜息をつく。ときどき、俺と静音の関係がもっとこう……ややこしくなければいいのに、と思う。デートに少し遅れるという些細なことでさえ、こうやって策略に満ちた心理的な柔道の試合と化してしまう。
俺は静音のことがとても好きだし、静音も同じように俺のことを好きでいてくれていると思う。でもあいつの性格のおかげで、一緒にいる時に本当にリラックスするのはちょっと難しい。
それについては俺にも少し責任がある。俺は基本的な手話しか知らないけど、もっとちゃんと手話を知っていたら、静音の感情をはっきり理解できるだろう。静音との意思疎通はできるけど、俺が他の人と話しているときにでてくるようなニュアンスはやっぱりまだ伝わらない。
そして近くにミーシャがいるときは、二人ともそんな話をしたりしない。ミーシャはいろんな意味でいい女の子だけど、静音に向けて「キスしたい」なんて通訳してもらったりしたら、恥ずかしさで俺の心臓が止まるか、ミーシャがひとりでに燃え上がるだろう。
ましてや、実際に何かをするなんて考えられない。結局、これまで俺たちは人目を避けたキスを数回交わしたけど、それ以上のものはほとんどなかった。
俺はまた溜息をつく。多分俺は今、皆様方の「振られた男」のイメージそのまんまに見えているんだろうな。着飾って、デートに行く準備をしていて……ひとり惨めに約束の曲がり角にいる。
もう一度時計を確認する。15分か……これはもう連絡してもいいな。俺は本格的に心配し始めている。
「久夫ーーーーーーーーーー!!」
少しの間、俺は困惑しながら考える。静音が俺の名前を呼んでいる。いや、そんなことはありえない。俺は叫び声が聞こえてくる方向の路上を見て声の主を探すけど、そこには人ごみができていて、よく見えない。あれは……
「久夫ーーーーーーーーーーーー!!」
……ああ、やっぱり。人ごみから駆け足で飛び出し、俺に向けて元気に両腕を振り回しているのは、制服姿のミーシャだ。
俺が反応できる前に、よろよろと最後の数歩を進め、俺の正面で立ち止まる。体を曲げ、膝に手をつき、呼吸を整えている。
「はぁっ……はぁ…………」
「ミーシャ……お前なんでここにいるんだ? 何かあったのか? 静音は……」
俺は天気とは全く関係なく寒気を感じる。神様、なにか悪いことが起きたのか? 静音は怪我でもしたのか、それとも襲われたのか、それとも……
「はぁぁっ……はぁ…………ふぅ」
ミーシャはゆっくり立ち上がり、まだ疲れを残しながら俺の目をまっすぐ見て言う。
「この、バカーーーーー!!」
……今の言葉はあまりに強烈な音量と圧力で、後ろの窓ガラスには間違いなくひびが入っただろうと確信する。もともとミーシャは穏やかな話し方をしないけど、今のは俺も一歩後ろによろめいてしまうほどだ。機嫌を損ねて間もないようなその視線も、何か関係があるのかもしれない。
「デートの日に携帯の電源切るなんていったいどういうつもりなの!? このダメ男!!」
「……え?」
何を言ってるんだ? 電源を切ってるだって? 俺は携帯をポケットから出して……
……やべっ!
俺はミーシャがそれ以上何か言わないうちに死に物狂いで携帯を突き出す。
「違う! 見ろよ! 電源を切ったんじゃない、電池切れ! 俺悪くないから! 頼むから落ち着いて! 静音になにがあったんだ?」
ミーシャはまだ怖いくらい真っ赤だったが、静音の名前を出したら少し落ち着きを取り戻したようだ。
「……しっちゃんは引き止められたの。今日は来ないよ」
俺は息を爆発的に吐き出した。彼女の怒りと俺自身の心配に挟まれて、俺は自分で思っている以上にに緊張していた。でも静音が無事なら、ほかに何が起きたとしてもどうにかなる。この埋め合わせは高くつくかもしれないけど、でも……
うーん……
自分の意識がミーシャ以外に向いたその時、周りの全ての人の視線が俺たちに向けられていることに気づく。少なくとも1ブロック先まで聞こえるような大声で言い合っていたのだから、驚くようなことではないんだろうけど。クスクス笑っている人がたくさんいる。
俺はミーシャの腕をつかんで引き寄せる。
「着いて来い」
「えっ?」
彼女の怒りが困惑に変わる。
「だから着いて来いって! 話は後でもいいだろ!」
俺は歩き始め、ミーシャもつまづきながらついてくる。驚いた、面白がっている、あるいは非難めいた表情の観衆を後にして、すぐに彼女は俺と歩調を合わせる。とにかく公衆の面前で恥をかいた現場から確実に距離を取るべく、どこに向かっているのかなんて考えずに適当に2,3回曲がってから、立ち止まってミーシャと再び向き合う。
「いいか。聞いてくれ、ミーシャ。悪かった……俺に知らせるためにわざわざここまで来なきゃいけなかったのはわかるよ。でも俺が悪かったわけじゃない。ただの偶然だったんだ。頼むから怒らないでくれよ、な?」
ミーシャは膨れている。天よ、俺はむしろもう一度怒鳴られることを望んでしまいそうだ。俺は先に口を開き、尋ねる。
「『引き止められた』って……実際には静音に何が起こったんだ?」
「言うから離してよ」
「え……? あっ!」
彼女の腕をずっと掴んでいることに気づき、あわててそれを離す。ミーシャは体の埃をはらってから、再び俺の方を真剣に見る。彼女はグーを作って口に当て、かわいく一つ咳払いをした後、素早く手を動かして長々と複雑な手話を見せる。もし俺の命がかかっていたとしても、こんなのわかるわけがない。
ああダメだ。思ったより早くつけを払う羽目になりそうだ。ミーシャはサメのように歯を見せてニヤリと笑う。実に楽しそうだが、俺の気分は全く晴れない。
「わかった、わかった。降参。俺にも分かるように訳してくれないか?」
「へっへっへ~。いいけど……高くつくよ?」
やっぱりな。
「……いいよ。それで何がお望みなんだ?」
「関係ないない~! それに、どうせ知りたくてしょうがないんでしょ? ねぇ、ひっちゃん?」
うう……その通りだ。もし静音が来られなかった理由を後で自分で確かめる羽目になったら、そのことを静音に知られて、最終的に俺は薄情で鈍感な間抜けだと思われてしまうだろう。
俺は降参して両手を挙げる。
「そうだよ。言うとおりにする。で、あれはどういう意味だったんだ?」
「あははははっ! あれはね、しっちゃんからの伝言なんだよ」
…………
そこでミーシャは一瞬止まった。俺が本当に不機嫌な表情をしているせいだろう。そして続けて、
『久夫、残念だけど急な家庭の事情で、今すぐ出発しなければならなくなったの。大したことじゃないから、心配しないで。予定通り会えなくて残念だわ。数日したら帰ってくるから、そのときに埋め合わせができるといいわね』
まったく、静音らしいな。他の人なら「急用ができた、心配しないで、ごめんね、また来週」とでも言うだろうけど、静音ならこれ以上ないほど完璧なお詫びを伝えてくるんだ。俺はほっとしたが、まだ完全に安心しきってはいない。目の前にいるニヤついているこの悪魔をどうにかしないとな。
「お願い聞いてくれる準備はできた? ひっちゃん」
正面から突っ込めば、傷は浅くて済むかもしれない。
「ああ。なにがいいんだ?」
「へっへ~」
ミーシャは俺の隣までスキップしてきて俺の腕をつかむ。
「こんな状況から逃げ出そうとしないでくれて本当にありがと、ひっちゃん! 今日はしっちゃんの代わりに私を連れてって!」
「『絶対に』聞き間違いだよな? もう一回言ってくれないか?」
「え~、私が言いたい意味、分かってるんでしょ? ひっちゃんたちはデ・エ・トに行くつもりだったんだよね、しっちゃんがさっきの伝言考えているときにほとんど私にも伝わってたよ。あー、しっちゃんは『愛してる』ってことも伝えてほしかったと思うけど、でももちろんそこまでは言ってないからね。なので~、しっちゃんを連れて行く代わりに、わたしを連れて行くの! 感謝してよねひっちゃん、おかげで予約が無駄にならずにすむんだから! ははははは!」
……くそ。その通りだ。確かに考えてみると、さっき俺に怒鳴りつけていたときから全部知ってたな。静音が俺に愛してるって伝えたがっていたのはちょっと嬉しいけど、でも……
「ほら早く! ひっちゃん、動いて動いて! このままだと遅れちゃうよ!」
……今は俺の肩を引っ張って脱臼させようと雄々しい努力をなさっているミーシャさんをどうにかしないとな。はあ、やれやれ。いい事ばかりとは限らないな……。
***
こういうややこしい事情だっだけど、驚いたことにそれでも今日はとてもうまくいったのだった。二人は昼と夜くらいの違いがあるのにも関わらず、ミーシャは俺が静音とのデートのために考えた予定を楽しんでいるようだった。彼女はしゃべりっぱなしだった。俺が選んだ小さなレストランでも、大量の料理を貪り食いながら、彼女が時間通りに俺に連絡をつけるために走ってこなければならなかった件について話し続けていた。彼女はぶらぶら歩くことが好きなようで、商業地区でウィンドウショッピングをし、そのときに俺にアクセサリーを一つ買ってほしいと『頼んだ』。彼女は俺が予定に入れていた古典美術品の展覧会だけ反対して、代わりに喫茶店の『上海』に行きたいと言った。その後、ミーシャはこっそりと短い電話をかけた……
そして今、俺たちは上海の客席に座っている。不思議なことに悪い気はしない。ミーシャは俺が見てきたどの静音よりも元気で活発な表情を見せている。ただ、これは公平な比較とはいえない。代わりに自然体と冷静沈着を比べるべきなのかもしれない。
ところで、ミーシャはティーポットから伝わってくる熱から察するに、溶岩並みに熱い何かを少しずつすすっている。一方俺は、すでに席に用意されていたハーブっぽい飲み物をちびちびと飲んでいる。嫌いじゃないけど、あまり好みでもない。たぶん、ミーシャがさっきの電話で手配したんだろう。
「へっへ~。ねぇ、ひっちゃん?」
「ん?」
彼女はことわざにある『カナリアを食べた猫』のように落ち着かない様子だ。俺はおおいに警戒する。これまでのところ、彼女の要求は常識的な範囲におさまっている。俺のデートプランを変更して上海に来たので、ここの勘定は自分が払うとまで言ってきたのだ。でも決して安心はできない。
彼女はテーブルの上に覆いかぶさるように体を曲げて、いかにも何か企んでいる風にささやく。
「……すてきな特別サービス、してあげよっか?」
ふいあsうぇでぃへ?
ちょっと待て、ちょっと待て。ありえない言葉が聞こえてとても怪しいんだが。ミーシャは俺をからかおうとしているんだ、そうだそうに違いない。そんなわけで、俺はあまりあれこれ考えずにうなずけてしまった。
「『本当は』何を企んでいるんだ? ミーシャ」
ああ、なんてこった……俺は二人と長く付き合いすぎたよ。築いてきた信頼もこれで台無しだ。こんにちは、疑心暗鬼。ゆっくりしていってね!!!
でもミーシャはそれを悪い意味に取った様には見えない。
「あ、私は飲み物をついであげたかっただけだよ、ひっちゃんとっても優しくしてくれてるから。言ったでしょ、サービスサービス! さあいかが?」
「ああ……いや、もちろん。どうぞ頼むよ」
そら見ろ、疑心暗鬼。目を覚まさないでいいって言っただろ。俺はそこまでこのハーブっぽい飲み物を飲みたいとは思ってないけど、断るのはとても失礼だろう。
二つの新品の磁器製のカップとともに、一本の瓶が静かに取り出される。ミーシャは仰々しくその液体をカップに注ぎ、俺にそっと差し出す。こりゃ驚いた、その気になればミーシャも上品に振る舞えるんだな。そして彼女は自分のカップにも同じように注ぐ。ミーシャは俺を待たずに、一息でほとんど飲み干した。
じゃあまあ、乾杯……。
……
「○×※□▲!」
言っておくとこれは俺の声だ。自分がこんな面白い音を出すことができるなんて、知らなかった。もっとも俺はそれを飲んでしまったことにも気づいていなかったので、あいこだろう。ごめんな、疑心暗鬼。お前が正しかったよ。俺は頑張って咳き込まないように努めるけど、目に溜まった涙でバレバレだろう。
「あれ、ひっちゃん、お酒弱いなら見栄張らないほうがいいよ? へっへっへ~」
「酒――」
やばいやばい。しゃべって危うくまた咳き込む所だった。俺は2、3度深呼吸をして、自分を落ち着ける。そして刺すような目つきでこの悪魔っ娘をにらみつける。)
彼女は自分でついだ2杯目のカップを幸せそうにちびちびやっている。俺のカップも再び満たされていることに気づく。
「もっといる? これは特別なんだよ、優子さんが私たちにしてくれる大サービスなの。私たちも飲みすぎないようにするし、優子さんも私たちが常連だからおとなしく飲むって信用してくれてるんだよ」
「俺たちが酒を飲んでどうなるかは置いといて、お前はそこまで俺を騙したかったのか?」
ミーシャの瞳が普段と違う輝きを見せる。そこに見えるのは……後悔、だろうか?
「あぅぅぅ。違うの、ひっちゃん。冗談で済ませてくれるかなって思っただけなの。ひっちゃんってすごく信じやすい人だから、我慢できなくって……でも悪気は無かったの。許してよぉ。ね? これ、ホントにおいしくてひっちゃんに楽しんでもらいたくって……」
俺は瞬きをする。今……謝ってたのか? この出来事だけで今日は奇妙な日だとさらに確信する。肩透かしを食らった俺にはカップを持ち、ぶっきらぼうにつぶやくことしかできない。
「乾杯」
ミーシャの顔に浮かんだ笑顔は、小さな街を丸ごと照らせるくらい輝いていた。
***
俺たちは学園へ帰る最終バスに乗るべく歩いている。いや、そう言うにはちょっと語弊がある。正確に言うなら、俺たちはジグザグに進んでいる。俺たちはうまい酒を数杯ぺろりと平らげた - ミーシャが俺に飲み比べを挑んできたのだ - それがちょっと効いてきているんだろう。俺の頭には心地よい耳鳴りが響いていて、手足の筋肉がゴムになってしまったかのような……開放感を感じている。
ミーシャは必死に俺の腕にしがみついて、ほとんど絶え間なくキャッキャッと笑い声をあげている。夜の空気が新鮮で気持ちいい。
「ねぇ、ひっちゃん~?」
「うん?」
「しっちゃんのこと好き?」
その質問は俺に衝撃を与えるはずだった。でもそうはならない。それは二人の友人が分かち合えるような親密なもので、自然なことのように思えた。俺は数秒考えた後、答えた。
「ああ、うん。好きだよ」
「しっちゃんじゃなくて私に付き合わせちゃってごめんね」
ミーシャの声は明らかに小声になる。
「バカなこと言うなって。なんにも謝ることなんてないから。今日は楽しかったし、いつも以上にリラックスできたし、感謝したいくらいだよ」
「本当?」
「本当」
「へへへ~」
彼女は俺につかまる腕にさらに強く力を込める。まるで俺の服の中に入ろうとしているようであり、そして俺の腕は柔らかさで包まれる。俺はそのことについてあまりよく考えなかった。
「ひ・み・つ、知りたくない? ひっちゃん」
「ん?」
「ねぇねぇ、どうなの~? ひっちゃんが一つ言ってくれたんだから、お返しに私も一つ教えるのが公平だよ」
「ああ、OK。お前がそう言うなら」
「…………私には声がないの」
「え? 何またバカなこと言ってんだ。今だってよく聞こえるぞ」
「違うの。今は聞こえるかもしれないけど、しっちゃんがいたら私じゃなくてしっちゃんのほうを聞くでしょ」
ミーシャは俺の肩に顔を埋めている。何だか……おかしな感じがする。この感じ……なんか間違ってるぞ。
「うーん、お前は静音の代わりにたくさん話しているし、それはそうだな。でも……」
「私は静音といるときはいつも静音の代わりに話してる。しかも私はほとんどいつでも静音と一緒にいる」
俺は黙ってしまう。ミーシャは俺の言葉なんて必要ないみたいだったけど。
「だから私はほとんどいつも自分の声を持てないの。ひっちゃんと一緒のときは。だって静音のまわりでは自由に話せないから。ひっちゃんは静音が好きだから。ひっちゃん、私はひっちゃんを励ましたいのに、他の誰かの代わりにひっちゃんを叱らなきゃいけない、ひっちゃんと一緒に笑いたいのに、他の人のためにひっちゃんをからかわなきゃいけない、それがどんなに不愉快かわかる? それから、それから……」
彼女の声は消え入り、鼻をすする小さな音が聞こえてくる。こんなの……まるで間違ってる。でも俺はどうしていいか分からず、そしてミーシャは俺の腕をしっかりとつかんでいる。まるでそれが唯一の命綱であるかのように抱きついている。
「私もあなたのことが好きなの」さらに小さい声が聞こえた。誰が言ったんだ? ミーシャか? 俺か? そんなこと関係あるのか?
俺たちは無言のままバス停への道を歩き、バスが到着するとそれに乗り込んだ。後部の座席に座り、お互いに顔を合わせようとしない。ぎこちない雰囲気が俺たちの間に漂う。
「ひっちゃん?」
「……うん?」
「ごめんね、自分勝手で」
俺が答えようと彼女のほうを向くのと同時にミーシャは俺に近寄り、俺の不意を突いた。
俺たち、キスしてる。
心の片隅で俺はミーシャの味は酒の味がしないと気付く。彼女は強いミントティーのように、熱くて爽やかに感じられる。俺は彼女の体に手を回す。女の子とキスする時はそうするものだ。すると彼女は俺に寄りかかってくる。俺たちはどちらも疲れ切っていて他のことは何もできず、だから息が切れるまでそのままでい続けた。俺たちは息ができる程度に、ほんの少しだけ離れる。ミーシャは脱水状態で死にかけている時に最後の一滴の水を見るような目で、俺を見つめている。
「今までのことを謝ったんじゃないの。まだ私なんにも間違ったことしてないもん。私はこれから起こることに謝ってるの」
彼女の声がとても遠くで聞こえる。彼女が飲んだ酒を全部俺の中にキスで流し込んだかのように、俺はぼぅっとし彼女は完全に酔いが醒めている。
彼女は溜息をつき、俺に寄りかかる。そして、その後間もなくバスが停車した。彼女が先に立ち上がり、俺の手を掴んでドアから外へ引っ張り出す。
「はあぁぁ~~。気持ちいい!」
もう夜の空気は少し肌寒くなっている。でも俺たちはいくらか興奮しているのだろう。学園の門が目の前に見える。ミーシャはこの世に心配事なんてないかのように、スキップしつつ幸せそうにくるくる回っている。
「散歩しない? ひっちゃん」
彼女は回るのを止め、いたずらっぽく微笑む。
「どういう意味だ? 行く所なんてどこにもないぞ、それに門限が……」
「大丈夫、大丈夫~! 時間は十分にあるから、それに……」
俺は時間を確認し、彼女が正しいことにはっと気づく。俺は門限を破りたくなかったので、何かあったときのために時間の余裕ができるよう、念入りにデートのプランを立てていたのだ。
「……近くに森があるでしょ」
彼女はまたバスの中で見せたあの表情を浮かべる。森の中には何もない。彼女はそのことを分かっている。俺がそれを知っていることも。
『……ごめんね、自分勝手で』
『……私には声がないの』
『……どんなに不愉快か分かる?』
「ああ、森の中で散歩か、いいね」
彼女は笑いながら俺を両手で暗闇のなかへ引っ張って行く。
あまり奥には入らない。時間もそれほどないし、はぐれてしまう危険は決して冒したくない。俺たちが月光によってまだらに彩られた影となるには数メートルだけで十分だった。
ミーシャはおかしなほど元気になっている。彼女は再び俺の腕に抱きつき、光の斑点の中でミーシャが俺を見上げているのが見えた。
「ねぇ、ひっちゃ~ん……」
「何だ?」
「……少し屈んでくれないとキスできない~!」
応じないわけにはいかないだろう。影の中で、俺は丁度いいくらいまで体を曲げ、そしてそれに見合ったデザートを口にする。
それは一度目のときより穏やかなキスだった。
俺たちは時間をかけながら、少しずつお互いを舌触りで探り合った。その間ずっと、俺たちはゆったりとしたダンスのパントマイムのように動き続けた、そしてミーシャが一本の木に背中をつけたところで終わる。
体を支える先ができた今、俺たちはお互いに集中することができ、そして集中する。
どうしてそうなったのかは分からないが、いつからか俺の左手は、そこに押しつけられた驚くほど柔らかくて引き締まった何かを掴んでいる。そしてミーシャは猫のような鳴き声をあげて息づかいを乱す。
「ひ、ひっちゃん……待って……」
俺は待ったりはしない。もうこの宝物を手放せないほど深入りしすぎてしまっている。でも、俺は誤解していた。ミーシャの手が俺から消え、カサカサという衣擦れの音が聞こえてくる。忌々しい数秒の間、彼女の左手は俺の手首をしっかりと掴み、そして解き放つ。今まで布で覆われていた位置にある、彼女の肌を感じられるように。
俺の最初の愛撫にミーシャは高い声をあげ、キスが中断される。彼女は頭を俺の胸に埋め、痛いくらいにきつい力で俺の肩に抱きついている。しかし俺も彼女も気にしていない。
彼女がどれだけの間こうなりたいという欲望を抑えていたのかは俺には分からないが、彼女の心の痛みを少しくらい引き受けるくらいのことはできる。
俺たちの息づかいは激しくなり、また互いの体に手をさまよわせる。ミーシャの手は俺のベルトの下を通過し、まさぐり始める。俺は少し震えながら、同じようにすることにする。
俺たちは焦りすぎてるんじゃないかという気がする--とは言うものの、俺たちはいろんな意味で緊急事態に直面しているわけで。
俺がミーシャの柔らかで肉付きのいい太ももに触れると、鋭く息を吸う音が聞こえてくる。しかし彼女は俺にやめてとは言わない。
俺が手を彼女の股間のほうへ上げていくと、息子を触れられているという感覚を感じ、俺は体を震わせる。
だが、どちらもやめろとは言わない。
そして俺の手が彼女の最も大事な場所へ到達すると……
「あぁっ……はぁ……あぁぁん……」
……ミーシャは俺よりもずっと興奮しているのだと気付く。もう俺たちは止まれない、ということも。なぜなら彼女のスカートの下で、俺の指先は布ではなく、柔らかで温かい湿り気を感じたからだ。
「いつ……」
俺はかろうじてそのしゃがれ声が自分のものであると認識することができた。だがミーシャはそんなこと問題にせずに、息を切らせながらクスクス笑った後に答える。
「さっき……一旦離れたとき……」
もう考えることも難しくなっている。俺は自分の体を彼女に押しつけ、その褒美として彼女のキャッという高い声が返ってくる。
彼女は俺の首につかまると、ささやくように嘆願し、俺たちの運命を決める。
「いいよ」
なぜ三つの手が関わると言うだけで、自分のチャックを開けるだけの単純な作業が、ほぼ一時間かかるような煩わしい作業に変わることになるのか、信じられない。
俺は一旦自由になると、必要なこと以外に時間を費やさない。俺たちは完全に木にもたれかかり、俺は狂ったようにまごつきながら、やがてあるべき場所に沈みこむ。
「いっ……たぁっ……」
ミーシャは体を少し強張らせるが、俺には気付きようがない。
俺は動き、感じ、そして抱きしめる。いつからか、彼女は脚をあげて俺の脚に巻きつけている。でも二人とも無意識で動き続けているだけなのか、それ以外に何かしているのかどうか、俺には判断が付かない。二人とも、もううめき声や喘ぎ声しか出すことができない。
数分後、いや、数時間後かもしれないが、全てが真っ白になった。
「はぁ……はぁはぁ……はぁ……」
現実に戻るまでしばらくかかった。そして俺はすぐにパニックに陥る。
「ひっちゃん……責任……取ってね?」
今すぐに通訳が必要だ、と俺は気付く。俺の口から発されたしゃがれ声から考えると、どういうわけか俺は声を無くしてしまったようだ。それに俺の手はふさがっているので手話もできない。通訳は今さっき俺に質問をした人間しかいない。神様俺はどうすればいいんだドンナイイワケスレバイインダ……
天使が発した鈴の音のような笑い声と簡単な言葉で、俺は地獄から引き上げられる。
「へっへっへ~……ひっかかった~!」
……いや、悪魔かもしれないな。でも翼は翼だ。この状況であーだこーだ言ってる余裕は無いな。
「心配しないで、大丈夫大丈夫~! でも今度からは気をつけなきゃダメだよ! ほらあっち行ってて、私……後始末、しなきゃいけないから」
俺は熱烈なキスを受ける。それは品の良さを漂わせるような軽いものじゃなかった。熱のこもった唇同士のぶつかり合いだ。三台の車の自動車事故と駐車場の関係と同じくらい、キスとはほど遠いものだった。
俺たちはもう離れている。俺のモノは今のローブローには耐えきれず、ただ彼女を手放し、もぞもぞと後ろに下がって、いろいろとまごつきながら後片付けをする。俺がもう一度ミーシャを見ると、まだらな闇の中から俺を元気付けるかのような笑みを浮かべ、手を振ってきた。
当惑して、俺は振り返り、言われたとおりにする。
あと数歩で森から出るところだった。二人とも少し森の端に向かってさまよっていたようだ -- 2000時間くらい前に。
俺は時間を確認して、目を疑った。俺たちは森の中に30分もいなかったのだ。まだ門限にだって全然遅れていない。
次に気づいたのは、自分の両手についた血の筋だった。
もう今日一日で十分すぎるくらいショックを受けたと思っていたけど、どうやら間違いだったらしい。俺は気も狂わんばかりに手を確認して血を拭き取ってみたが、傷は一つも見つけられない。更に死に物狂いで調べると『リトル久夫』も同じくらい血まみれであることに気付く。でもやはり傷はない。つまり……
うわあ。
完全に恐慌状態に陥る寸前、背中にかけられた声に救われた。
「よっし! じゃあ、帰ろっか!」
なぜ彼女が平然としていられるのか分からないけど、でもミーシャはそこに立って、ニコニコ笑っている -- *笑ってるんだ*、本当に。うっすらと疲労の色が見て取れるが、消耗しているにもかかわらず笑顔のままだ。
もうどうしていいのか分からない。泣き出してしまいそうだ。
「ちょっとひっちゃん、幽霊でも見たみたいな顔してるよ。私だってば、ほんとに! あははは!」
俺は呆然として、頷くことしかできない。俺がミーシャに腕を差し出すと、彼女は幸せそうに俺に寄りかかってくる。それとも感謝しているのだろうか? 俺たちは門へと向かい、そのすぐ手前まで来るとミーシャは俺を放す。
「おっけー、ここでお別れしなきゃ。もしこんな遅くに一緒にいるところをみられたらちょっとマズいもんね。じゃーね、ひっちゃん。また明日!」
両手を素早く動かすと、彼女は門の中に消えていき、見えなくなった。彼女の顔に、あの時のような表情は少しも見ることはできなかった。でもさっきのミーシャの手の動きは手話だったと思う。それは手話ができるとはお世辞にも言えない俺が、特にがんばって覚えた言葉の一つだ。
『愛』だった。
その夜、自分のベッドの上で悶え転がりながら、俺は彼女の甘美な声の夢のせいで眠ることが出来ないでいた。
-SC
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- Joined: Tue Aug 04, 2009 11:45 pm
Re: SS日本語訳スレッド(Fanfics translated to Japanese)
すごい!上手だ!
ぼくがてつだいましょうか?My Japanese isn't that great, but if I can assist with Katawa Haha, or my Shizune fic, I'd love to.
ぼくがてつだいましょうか?My Japanese isn't that great, but if I can assist with Katawa Haha, or my Shizune fic, I'd love to.
This one needs to lurk moar. This one lurks too much! Ahh, this one lurks juuuuust enuf.
Katawa Haha: Disability Mothers
From Shizune's Perspective: a fanfic
Katawa Haha: Disability Mothers
From Shizune's Perspective: a fanfic